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専門家と聴衆、芸術の概念について


芸術は、作家である人間の心象を物理(音響)現象に置換する営みであり、作曲家は主観的音楽体験を共有するために譜面に起こすといった手続きをとる。それ以上も以下もない。そこから先は演奏者と聴衆がいるだけで、厳密に言えば作家の手からは既に離れてしまっている。うまくいけば作家の脳内で生じた音響現象を演奏者が再現し、もっとうまくいけば演奏家が作家が意図した以上のものを作品から抽出し、多くの聴衆を感化する。それを普遍的な意味で芸術と呼ぶかはさておき、単に私はそういった作用の連鎖にすぎないと思う。「それは違う」と気色ばむ議論好きもいるかもわからないが、先生に教わったことを信じる人はそれを信じていればいいし、教科書や辞書や哲学書、専門書に書いてあることやだけが”真”と信じる人はそれはそれでいいと思う。場面場面で、芸術という語(認識の部分的な一致であれ)が共有できれば、それで十分だと感じる。”私”が「あなたはそれを信じている」という事実を確認できれば、話題は共有できると私は信じているし、「こういうものなんだから信じろ」と強要することは論理的に破綻を来すことになる。

芸術の概念は大体こんなものだとして当の楽譜にプログラミングされた仕組みにどうしたらアクセスできるのだろうか。

話はいったん変わるが、アカデミー界での「音楽」は一般に文系にカテゴライズされる。確かに(一般大学の教育学部

ではしらないが)音楽大学では一通り資料の集めをして作品に臨む(テストを受ける)ことがある。作曲家の出身国や作曲年を調べたり、時代別の演奏様式然り、楽式論的解釈にも人によっては時間をかける。しかしそれを試験で問われることはない。ただ、彼らの奏でる音響現象に、学術的アプローチがどのようにして反映されているかを試験官は聴き、或いはもっと実際的な要素の、音色・ピッチ(音程)・リズム(拍感)を聴く者もいると思う(もしかしたらこちらの方が多いかもしれない)。

一般の方々はなにを聴いているかというと無論、後者の要素である。

ドミナント定型にどういった緊張感をもたせるかとか、繋留音の処理はどうするのかとか、主題の動機展開にどういったアプローチを仕掛けてくるのかといった要素に耳を傾けている一般聴衆が居るとは考えにくい(別に気にしなくてもいいことかもしれませんけど)。

あたりまえですけど、音大では専門的・学術的な見地から演奏にどうやってそれらを導入していくかを教わる。もちろんテクニカルでプラクティカルな”技術知”や現場での振る舞いも一流の先生たちから教われるけれども、それならば個人的に習いにいけばいいと思う。

大学といった教育・研究機関では音楽という複雑系でわけのわからない構造に仕組まれた「仕掛け」の”仕掛け方”を学ぶのである。

そのような仕掛けのお陰で一般聴衆は「なんだかわからないけど、あのクライマックスで鳥肌がたつほど感動した」とか「なんとなくだけど、あそこのハーモニー、好き」などの感想を抱くのだ(億見ですけど)。

なんといっても、一般の方がそのような専門的側面に関心をもつかどうか。これが第一歩だと思う。音大に入って専門書を読み耽り、一流の先生にレッスンを受け、毎日何時間も練習して過ごしたとしも外に出てみて、(誤解を恐れずに言えば)聴く側の耳や概念(西洋音楽の構造にたいする認識)が備わっていないのであればその大半は徒労に終わってしまうのではないだろうか。

私は音楽家の端くれの端くれですけれもど、中高の音楽教育(授業数は減らされる一方ですが)にもそのような西洋音楽の仕組みを伝えられるようなインフラがあったなら、さぞ面白くなるだろうと思う。実現するには非常に巨大な径庭(民族的・構造的課題)があるために、一朝一夕にはいかないでしょうが。少しずつ、できることからやっていきたい。


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