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from object to infinity


私たちは理性の働きによって主対象Aと他対象B,C,D…etc. とを切り分ける。

Aを文節するにはB,CといったA以外の対象が不可欠になる。AはBに依存的である。

例えば対象A(物体でも抽象概念でもなんでもいい)を間主観性で知覚する場合、他我を前提に思惟する自分を認めたとする。「他者にあると考えられる我」を思惟するとき、我々は自分の内にある経験によって得られた感覚から、推論を組み立てる。他者に同期することも、憑依することも、一体化することも「その時点に於いて」は不可能であるからだ。

他我は、主体の経験によって支えられた知覚であるとしたならば、ここから導き出される仮説は間主観的世界観もまた、文節作用によって構築せられた世界観であるということができるだろう。

対象A(林檎でも木でも愛でも友情でもなんでもいい)があったとする。

Aの意味文節をする際、必ずそれ以外の比較対象を照応して意味を付与する。限られた形容詞を使用してそれが何であるか思惟し、考量し、還元する。

しかしながら、我々は通常状態にあってはその対象Aの向こう側に拡がる無限には踏み入ることができない。何故なら他のB,C,D...といった比較対象がAに依存している限りA自体もまた「比較対象の宿命」として文節的世界に引き戻されるからである。Aもまた比較対象として存在すると観念している限り、超越論的Aは姿を現すことはない。超越論的Aは「未だ見たことも聞いたこともないのにAが論理的に理解できる」というアプリオリ(先天性)を前提に措定された命題である。

その対象が何であるか我々は初めは何も知らなかった。"知る"ということすら知らなかった。

自我と対象が分かれ始めることによって)初めてAがAとして独立することになる。Aは「私」であったが、鏡像段階を経てしまえば、そこには分節的世界が待っている。

しかし、鏡像段階以前に得ていた認識は一体どのようなものであったのだろうか。おそらく、AとBは互いに融化し合い意味文節もなにもなく「私」は認識それ自体であった、知ることそれ自体であった、のかもしれない。

知る必要があるから、理解しなければ生存できないから、などの意味や理由を考えなかったが、実存的には知を欲していた(そもそも「思考」や「理解」の言葉がどういう"感覚"に相当するのか理解していないのだから)。

言語化・分節化プロセス以前には比較対象は存在しない。それぞれの対象が融化していれば全存在は主体にとって世界そのものである。触れる空気、水、大地のあらゆる全ての物体が彼にとっての「私」である。感情そのものが主体それ自体である。

もちろんこういった多元的一元論(一般に、あらゆる物体は”要素”として分けられた多元的世界のように認識されるが、主体の発達段階によっては、各要素が融化した一元的世界が構成される)だけではこの段階を網羅的に言い表すことができないと思われる。「対象」は他対象との関係によって初めて「対象」として認識される。トートロジーのようであるが、存在論の枠組みで言い表そうとすると、そういうことになる(存在論で語る以上、無も有になり、存在以前の存在について語ることが不可能になる。"無"を言及すると「"無"という事実が在る」ことをも同時に言及してしまうからである)。

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