循環の求心性
方法論も理論も既知の内で語られる限り同一者に還元される。我々はフィードバックを得ると直ちにその事象を既知の枠内へ同化する。そこで語られること、すなわち思考プロセス、文脈の構成法、形容詞・副詞の用法・・・語法はすでにデザインされている。
例えば、市場至上主義を母体とする社会では、「解り易い文章を書く」とか「伝わらなければ意味がない」という命題設定そのものに違和感を感じる人が少ない。それを"いいこと"に登録し、認識を共有している(少なくとも私にはそうみえる)。市場至上主義のもとでは商品のもつメリットをいち早く消費者に告知することが求められる。すべてのメディアがその偏向に煽られるうちは解りやすさや伝わり易さの比重が大きくなるのは当然である。消費活動を促進し、購買意欲を掻き立てるために難解な文章や概念をつくりだす必要はない。
もちろん私は、故意的に道を惑わせる衒学者を擁護するつもりはない(衒学的か判断するにはリテラシーが必要だと思いますが)。
解りやすい説明や伝わりやすい説明は、知的作業を軽減させはするが、概念的に脆弱にならざるを追えない。わかりやすさはある種の"弱さ"や"狭さ"とトレードオフしている。
とうぜん難解であることが"いいこと"ということではない。現実は記号的な説明よりもはるかに複雑で難解であるが故に、その複雑さに対応し得る複雑な概念を作らざるを得ないのである。
論理によって分節化された世界はシンプルになる。各事象は区分けされ、感覚与件に記号が当て嵌められ、主体固有の世界観が構築せられる。
しかし、その主体が自らを成長させることが可能かどうか?自らの同一性を強化することに務めてきた主体によってなされる方法は、結局のところ、同一性を強化することだけではないだろうか?
同一なるものは他者の承認を必要とする。「私は・・・である」といった自己規定すら他我に承認され初めて現実になる。日本語話者は日本の間主観の中に必然的に放り込まれその世界の共有が不可能な者(異邦人)は生存できない(精神病院に送り込まれるか浮浪者になるだろう)。語られるものによって構築せられる世界の中には固有の"酸素"のようなものがあり、それを一緒に呼吸していないと酸素不足になり、いずれ窒息死する。
我々は完全に孤立して決定するわけではない。フッサールの言うように、他我を単位として共同主観性は形成される。共同主観性は自我に根深く関与する(認識を共有しないとその社会では生きていくことが極めて難しい)。そうして自我が集団を成し、法がつくられ、構造化される。基礎単位である「個人」が思量する際、根底に据えているのは他我であり、他我の承認のもと構造を生成している。それを日々再生産しているのである。
例えばあらゆる国の中で起こっている集団特有の精神的な病がなかなか癒えないのは、病を承認する他我の存在が即時的に生成されることが深く関わっていると私は思う。疑念が確信に変わるには他我の承認がどうしても必要であり、その承認を下す他我は言うまでもなく間主観性の循環作用によって常に間断なく生産されている。
この強烈な求心性から抜け出す法はあるのだろうか?
主体を形成する位相段階から抜け出ない限り、間主観の渦による求心性の中に引きずり込まれてしまう。そして、「そう思うこと」をやめられなくなってしまう。そう考えざるを得なくなる状態、所謂「住地煩悩」の状態から抜け出るには、思做してきた論理を全て撤回しなければならない。
まずはそうしなければ、つまり自己認識から始めなければ、眼前の「虚構の森」を抜け出すことは出来ないだろう。
自由は「私は自由だ」と言明する必要でなくなった瞬間にかくあるのであって、概念を必要とする自由は自由ではない。つまりそのような社会では自由は死語になるだろう。言表される「自由」は構造内の制度的、付加的自由である。成熟を語る場合も、権利を主張する場合も平和を謳う場合もそうである。
対象について語る以上、彼の解釈が対象にこびり付きなんらかの仕方で"汚される"。神を人間が言及できないのと原理的に似ている。
神は全能性を有する存在であるがゆえにそれを我々が語ることはできない。「全能性を有する存在」と言って、存在論で語ることも不十分であり無意味である。
存在論は人間の語法であり、存在論によって神を語ることは、"我々の理解の仕方"によって理解しただけの話である。
「オレ神ってこう思うんだけどさ」という言明は失礼とか不躾と言う以前に、不可能なのである。