倒錯する意識
昨日の意識と今日の意識とでは違う。この事実は当然のことであるのだが、ここに数多なる勘違いの温床がありそうなのである。
なぜ昨日の意識とは違うのに今日の自分の意見のほうが正しいと思うのか。
昨日の自分より今日の自分の意見のほうが正しいと思い做してしまうのは私だけだろうか。
年齢を重ね、場数を踏めばそれだけ知識は増え、応用できるようになってくるであろうことは、推測としては当然のことである。
これを端的に”経験”と言ってしまえばそれまでである。
しかし、この”経験”は一体なんなのだろうか。このマジックワードはこんにちの社会で至極当然のように日本人の脳内に棲息している。すなわち、ある種の慰めと希望を込めて扱われる場合が少なくない。
「(失敗して)すみません。経験が足りませんでした」「(熟練者が業界の事情を素人に説明する際に)まあ経験すればわかりますよ」などなど・・
話にいったんケリをつけるため便宜上、使用されるのが一般だろうと思う。
生物学的には細胞は日々、生死を繰り返しているのだから、脳細胞も新しくなっていることに違いないが、昨日より今日のアタマで考えたほうが「良い・優れてる」といった評価は安易にすべきではない。
と、アタマではなんとなしにわかったつもりでも、直ちに回答を求められるときには無意識的なバイアスがかかってしまう。
”答えのない問い”に対峙するとき、アタマは過去の事例を参照して回答を提出する。偏りがかった状態では、感覚と相談する間もなく答えが提出されてしまう。私たちが直面する多くの問題(と人々が思っている事象)の原因はこの”答えのない問い”から発生する。
あたりまえだが作曲でも、1年前より今日のほうが美しい旋律が書ける保証はない。旋律ではない別のスキルに時間をかけて能力を伸ばそうとすれば、能力全体がバランスを保とうとして変動していくことは十分に考えられる。書法はそのようにして洗練されていくのかもしれない。あるいは審美眼が変わってしまったのかもしれない。